第609英国空軍飛行隊・ジョン ダンダス
John Dundas (RAF officer)
John Charles Dundas,DFC(空軍殊勲十字章)&Bar(線章)
(19 August 1915~28 November 1940)は、英国の第2次大戦の戦闘機パイロットでエースパイロットであったが、このエースパイロットとは空中戦において少なくとも5機の敵機を撃墜したとみなされたパイロットに与えられる称号である。
1915年にウェストヨークシャーに生まれた貴族の息子ダンダスは有能な生徒で理論的であった。
21歳で卒業後、その研究の完成のため彼はジャーナリストとなって故郷の新聞社に入社した。
2年後彼はリポーターとしての生活に疲れ果て、1938年7月に英国補助空軍に入隊、ウェストライディングの第609飛行隊に飛行将校として任官され自費でパイロットとしての訓練を行った。(訳者注:当時補助空軍でパイロットを目指す場合、訓練費用は自分もちが一般的だった。庶民には無理か?)そのパイロット訓練は1939年に完了した。
1940年5月に彼の部隊、第609英国空軍飛行隊はバトル・オブ・フランスに参加、その間にダンダスは最初の2機撃墜を申告した。
ダンダスはバトル・オブ・ブリテンの期間、第609飛行隊に留まり9機のドイツ機撃墜を申告した。
10月9日彼は10機撃墜をもってDFC(空軍殊勲十字章)を授与された。
最後の戦闘時にダンダスは12機撃墜、2機共同撃墜、4機撃墜不確実、5機撃破を記録されていた。
1940年11月28日のイギリス海峡上空の戦闘中、ダンダスはこれに参戦、当時ドイツ空軍の最高撃墜記録のエース、ヘルムート・ウィックを撃墜したと信じられている。
その後まもなく、ダンダスも海に撃ち落とされた。両名パイロットは見えなくなり戦闘中行方不明のままである。
人生前半
ジョン・チャールズ・ダンダスは1915年ウェストヨークシャーに生まれた。
彼はこの地方の2つの貴族の家系と関わっており、スコットランドの革新的政治家ジョン・ダンダスの孫でありジェットランドの初代伯爵ローレンス・ダンダスの孫であった。
ダンダスはハリファックス家とも関係していた。
ダンダスは12歳でストゥーウェ校への奨学金を得た。
そして17歳でオックスフォードのクライスト・チャーチ校への2度目の奨学金を得た。
ソルボンヌ校とハイデルベルグ大学の両校での研究を許されるという、より大きな授与を手に入れる前に、ダンダスは近代史で第一級の成績で卒業した。
ダンダスは引き続いてヨークシャー・ポストのジャーナリストとなりその編集スタッフとなった。
当時新聞社で働いていたもう一人、リチャード・ペイプは彼がその個人的外観には無関心な男で、擦り切れたズボンを履きしばしばインクに汚れた手をしていて、飲むときには自分にビールをこぼしていたが、しかし新聞社の若い女性スタッフ陣にもまた人気があったことを思い出した。
1938年に新聞社は彼をネヴィル・チェンバレン首相の側近としてミュンヘン一揆の期間チェコスロバキアに派遣したがそれはベニト・ムッソリーニ、チェンバレンそして外務秘書官のハリファックス卿(ダンダスは彼と親戚だったのだが)の会談をリポートの為ローマへ旅する前のことだった。
1938年7月、23歳でダンダスは第609英国空軍飛行隊、王立補助空軍飛行隊に飛行仕官として任命された。
ヒューゴ(訳者注:ジョンの弟)とジョンの名付け親は既に部隊を創設していた。
当時飛行隊にはパートタイムの民間人が配属され、ホーカー・ハインド爆撃機で装備されていた。
爆撃機飛行隊から戦闘機飛行隊へと転換されそしてその後1939年8月にスーパーマリン・スピットファイアーに再装備された。
ジョン・ダンダスは同僚に良く慕われ、彼はしばしば部隊長の後方を飛んだ。(訳者注:部隊長は信頼できる彼に後方援護を任せた。)
ダンダスの弟ヒュー・ダンダスも又戦闘機パイロットであった。ヒューは1940年8月に負傷したが回復、遂に空軍大佐の地位に上った。
ヒューは戦争を生き延び1995年に亡くなった。
第2次大戦
フランスの戦い
ダンダスは1940年1月に空軍中尉に昇進した。
609飛行隊は1940年5月にイングランドの南海岸に配属され、ダンケルク撤退に参加する英国海軍や民間の船舶に上空援護を提供する英国空軍戦闘機軍団の作戦の一翼を担った。5月30日に彼は初の哨戒に飛び立った。
翌日彼の飛行隊は英空軍ノース・ウィールド基地で12時30分から30分待機になった。
14時に彼の飛行隊は離陸、高度2,000フィート(6,100m)でダンケルクに向かい始めて敵と出くわした。
次の哨戒でダンダスはL1096号機で飛びドイツ爆撃機編隊と出くわし、1機のHe111と1機のDo17を破壊した。
ダンダスはフランスの戦いの間再び戦果を上げることはなかった。
英国の戦い
続く数週間にわたり609飛行隊は英空軍基地ノースホルトから英空軍基地ミドル・ワロップに移動した。
バトル・オブ・ブリテンでのダンダスの最初の勝利はここから始まった。
それはカナールカンプ(海峡航空戦)として知られる段階であった。
7月13日分隊指揮官としてダンダスは船団上空の哨戒を指揮した。
船団の発見に失敗したスピットファイヤーはイングランドのポートランド付近15,000フィート〔4,600m〕でドイツ機と遭遇した。
R6634号機で飛行するダンダスはメッサーシュミットBf110に対し太陽を背にして急降下攻撃を指揮した。
ダンダスはBf110 1機の撃墜を申告したが損害を受けた機体と負傷したパイロット、クレビッツ少尉はフランスに機体を連れ帰り、そこでBf110は強行着陸によりひどく損傷を受けた。
7月遅く夜間飛行中のダンダスは危うく命が救われた。
陸地に進入中、翼が固定砲台に据え付けられた大砲に衝突したのだ。が、彼は無傷で生還した。
続く数日にわたりダンダスはドイツ機編隊と続けられる戦闘を戦った。
彼は8月の部隊戦闘日誌に次第に激しくなる空中戦と、その背負った責任を記した。
この日誌の中で彼はこう述べた。
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609飛行隊に関する限り、ナチの電撃戦は8月8日に始まり、4人のパイロットが戦闘に参加、5機のドイツ機を葬った。
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1940年8月11日ダンダスはR6769号機を飛ばした。
午前9時45分に離陸、黄色分隊を高度24,000フィート(7,300m)でワイト島付近の海に先導した。
ダンダスと他の2機のスピットファイヤー(彼の僚機を含む)は部隊本隊との接触を失った。
彼は9機のホーカー・ハリケーンを眼下と海峡の真ん中に発見したが頭上の航跡にも気づき捜査の為上昇した。
飛行機はBf110で、メッサーシュミットBf109の上空援護を受けていた。
ダンダスは攻撃を指揮、しかし他のスピットファイヤーを失い単機で攻撃した。
彼は1機のBf110を撃ち落したがドイツ機の後方銃手から命中弾を受けた。
そのBf110は第2駆逐航空団第1飛行隊の機体のようであった。
1940年8月12日同じ空域でのBf109とBf110相手の戦闘が繰り返された。
ダンダスはもう1機別のBf110を撃ち落した。
Bf109を振り払い、もう1機に損害を与えたが、さらに多くのドイツ戦闘機が接近し燃料と弾薬が少なくなったとき離脱を余儀なくされた。
彼の5番目の勝利が今や彼をエースパイロットにしたのである。
1940年8月13日にドイツ空軍による最大級の攻撃が行われた。
“鷲の日”と呼ばれドイツは一連の激しい航空攻撃を開始した。
15時30分、赤分隊の4番機としてR6690号機で飛ぶダンダスとともに第609飛行隊は緊急発進した。
10,000フィート(3,000m)で彼はドイツ戦闘機を見つけた。
赤分隊の指揮官はその敵を発見できず、ダンダスが指揮を執るように指図した。
18,000フィート(5,500m)に太陽の中を隠れて上昇し、ダンダスは眼下にユンカースJu87スツーカ急降下爆撃機を見た。
攻撃により第2急降下爆撃機航空団のJu87から1機を撃ち落した。
ダンダスは被弾する前にもう1機に損害を与えた。
彼はイギリス空軍基地ウォームウェルにdead -stickで着陸した。
(訳者注:エンジントラブルによりプロペラは回っておらず、滑空した状態で着陸すること。空気抵抗を考えればおそらく胴体着陸。操縦桿が機能していないという意味と思われる。)
609飛行隊が襲ったドイツ部隊はひどく打ちのめされた。
第2急降下爆撃機航空団第2飛行隊のひとつの中隊は9機のうち6機のJu87を失った。
翌日8月14日609飛行隊はボスコムダウンを15,000フィート(4,600m)で哨戒していた。
R6961号機で飛行していたダンダスはBf110が雲の中に逃げ込む前にその機体に損傷を与えた。
Do17の編隊の上空に導かれた後程なくして、防御砲火から命中弾を受ける前に彼は1機の爆撃機に損害を与えた。
基地への帰還途中ダンダスは車輪を降ろしたHe111を見つけ、短い攻撃を実施、飛行場の南西5マイル(8km)に墜落させた。
その機体は第55爆撃航空団の本部小隊に所属していた。
ダンダスは9月15日まで他の撃墜申告が無かった。
バトル・オブ・ブリテンデイとして知られる日である。
朝、R6922号機に乗り込み彼は1機のDo17に損害を与えた。
エンジンの1つを破壊したのである。
別の機体X4197号機で飛び、彼は編隊僚機、空軍少尉マイク・アップルビーそしてアメリカ人パイロット、バーノン・キーオと1機のDo17撃墜を分かち合った。9月24日、彼は1機のDo17に損害を与え、一方X4472号機で1機のBf110を撃墜した。
同じスピットファイヤーに乗ってダンダスは9月26日に1機のBf109を撃墜、他のDo17 1機に損害を与えた。
翌日ブリストル付近でBF110 1機撃墜を申告した。
11日後ダンダスは16時30分にイギリス空軍基地ウォームウェルの北6マイルでのドイツ機との戦闘の後、Bf110 1機撃墜不確実を申告した。
12から14秒間の敵戦闘機への銃撃にも拘わらずその墜落確認は無かった。
戦闘中コクピットの中で機関砲弾1発が爆発ダンダスは足に負傷したが翌日再び飛んだ。
スピットファイヤー搭乗員ダンダスはその日R1965号機で飛んだが、この機体は今も残っていて王立戦争博物館に保存されている。
1940年10月9日までに彼の撃墜記録は10機となりDFC(空軍殊勲十字章)を授与された。
1週間後の1940年10月15日、ダンダスはP9503号機に乗りドーセット州クライストチャーチ上空14,000フィート(4,300m)でBf110 1機を撃ち落した。
1機のBf109から退避中ダンダスの機体の無線が故障し、彼は分隊と再集合できなくなってしまった。
頭上18,000~20,000フィート(4,300m)にBf110を発見、彼は攻撃を申告し、犠牲者はボーネマウスに墜落した。
彼はその後Bf109 2機編隊に追尾されたが上手く逃れた。
彼の勝利は609飛行隊にとり99機目の空中戦の勝利となった。
海峡戦線と最後の戦い
今までのところ、ダンダスは部隊で最高の撃墜記録を持つパイロットとして認められ、仲間から高く評価され良く好かれていた。
彼は自らの経験を若いパイロット達に披露し、特に飛行隊の指揮官マイケル・ロビンソンとは精力的に戦術を議論した。
ダンダスは戦争のこの早い段階であってもいまだに609飛行隊とともにある唯一のオリジナル補助パイロットだった。
生き残ったものが僅かであることを嘆くダンダスは補助パイロットの孤高のチャンピョンだった。
11月27日サウザンプトン付近で1機のJu88が報告された。
ダンダスは迎撃の許可を申請したが却下された。
ダンダスは飛行隊隊長に近づき、彼の分隊を訓練につれて上がりたいと申し出た。
ロビンソンは何も問題は無いだろうと予想し、許可を与えた。
22,000フィート(6,700m)でダンダスの分隊は接触を得、ドイツ機をワイト島上空でフルスロットル(それは毎分2600回転に達する)で追跡した。
Ju88は幸先良いスタートで逃げ出した。
しかしダンダスは次第に近づいてフランスのシェルブール沖15マイル(24キロ)で400ヤード(370m)以内に達した。
ダンダスはX4586号機の機銃を5秒間放ち、一方ドイツ機の銃手は断固たる防御を見せた。
Ju88の左舷エンジンが火を放ち、機体はコントロールを失い、鋭く急降下した。
今やBf109でいっぱいの飛行場が視野に入り、ダンダスは帰還を決心した。
帰還途中、彼の1機撃墜不確実は承認された。
翌日11月29日は609飛行隊にとって多忙だった。
数回の緊急発進と警報がBf109に対して発せられた。
最後の警報はグリニッチ標準時15時30分に発せられた。
ダンダスは再びX4586号機に乗り込んだ。
2つの飛行隊、第152と第609が今までのところ最も成功したドイツのエース、ヘルムート・ヴィックに率いられた第2戦闘航空団のBf109と接触した。
数分後、敵との接触が得られ戦闘に参加したが、フィールドセンド大尉は”109を片付けたぞ!やっほー”と叫ぶダンダスの親しみのある声を聞いた。
飛行隊指揮官ロビンソンはダンダスにお祝いを述べたがダンダスあるいはR6631号機で飛ぶ彼の僚機の空軍少尉ポール・A・バイロンから何の返事も無かった。
ヴィックは56番目の空の勝利として急降下攻撃でバイロンを撃墜したと信じられている。
バイロンは何とか脱出したが救出はされなかった。
一瞬気が散ったのかヴィックはダンダスの飛行路を横切った。
ダンダスは短い連射を加え、ドイツ時間17:00ころワイト島付近の海上でヴィックのBf109を破壊した。
ヴィックは戦闘中に、同じく(ヴィック撃墜を)申告した空軍少尉エリック・マースの犠牲になったとも推測されている。
ヴィックは彼の機体から脱出したのを見られているが彼は救助されず、遺体は発見されなかった。
その後ほど無くダンダスはおそらくヴィックの僚機ルドルフ・フランツに撃ち落された。
ルドルフは撃墜を申告し、パイロットがまだ中に居たままスピットファイヤーが海に墜落したのを見た。
ヴィック同様ダンダスの遺体は発見されなかった。
1940年12月24日ダンダスは2度目のDFC(空軍殊勲十字章)を死後授与された。
それは1941年1月7日ロンドンガゼットに発表された。
引用文から:
ダンダス空軍大尉(訳者注:死後昇進)は、ずば抜けた成功を伴って敵と交戦し続け、今や少なくとも12機の航空機を撃ち落し、更に多くの機体に損害を与えてきた。
ある機会には彼は敵航空機をウィンチェスターからシェルブールまで追跡、遂にこれを撃墜した。
彼は偉大な敢闘精神を見せつけ、それは彼の飛行部隊の他のメンバーに影響を与えてきた。
記念碑とR6915号機
墓が何処にあるか判らない飛行士として、ラニーメーデの空軍墓地に彼は慰霊されている。
ダンダスへの小さな記念碑がワイト島のフレッシュウォータ湾東の崖の頂上の道にある。
この地点から近い場所で彼の最後の戦闘が行われた。
この碑は彼の死後60年を記念して2000年11月に建立された。
ダンダスが戦闘中に搭乗したうちの1機、スーパーマリン・スピットファイアーR6915号機は今も残り、ロンドンの王立戦争博物館に保存されている。
この機体で彼は1940年10月7日にBf110 1機の撃墜不確実を申告している。